長宗我部元親

長宗我部元親初陣像(高知市) 元親初陣の様子を模した銅像

土佐の風雲児 長宗我部元親ゆかりの地を訪ねよう

高知県立歴史民俗資料館(岡豊城跡内) 長宗我部氏の歴史をはじめ、元親の肖像画など多くの資料が展示されています。

土佐を統一し、伊予、讃岐、阿波の3国の平定にもこぎつけた長宗我部元親。しかし四国をほぼ統一したその年、くしくも豊臣秀吉が関白に就任し、事実上、天下統一を果たすことになりました。
土佐の一豪族からのし上がり、土佐をまとめ、四国をほぼ統一した波乱の人生とは?軍才に恵まれ、人情厚く臣下と民に慕われたその人物像は?
歴史に「もしも」はありませんが、四国の英雄、長宗我部元親の人生をあえて「もしも」視点で見てみましょう!

もしも、「姫若子」でなかったら・・・?

岡豊城(おこうじょう)跡 長宗我部氏の居城であり、元親が生まれた城。現在はこのそばに県立歴史民俗資料館が建てられています。

元親は幼い頃から学問が大好きで、部屋にこもって本を読んでばかり。またひょろっと背が高く色白な外見も相まって、家臣たちから「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれ笑いの種にされていました。せっかく生まれた跡継ぎに期待していた父・国親もさぞかしがっかりしたことでしょう。しかし元親はただの文学少年だったわけではありません。戦争に必要な「兵法」をはじめとする様々な学問を習得し、実践に備えていました。このうんちくが後々自らを救うことになるのです。つまり、もしも元親が「姫若子」ではなく武芸だけを磨いていたら、軍才と呼ばれることはなく、四国を統一することもかなわなかったかもしれません。

もしも、初陣がもっと早かったら・・・?

若宮八幡宮(高知市) 初陣の際、戦勝を祈願して以来、戦勝祈願の社として訪れていました。

元親の初陣は22才。当時の武将の初陣は元服の直後、15才前後が平均とされていますが、それと比べてもずいぶんと遅めです。しかしこの初陣をきっかけに、頼りない「姫若子」はまるで別人のように変わったと言われています。
圧倒的に数で劣る状況で、元親は一人槍を持ち勇敢に攻め込んでいきました。その戦いぶりは、襲いかかってきた3人の敵をあっという間に倒したほど。そしてひるむ家臣を前に、こう叫んだと言います。
『ここでひるんでどうする!武士なら命を惜しまず、名を惜しめ!一歩もひくな!』
あの「姫若子」がまさか!と驚きつつも、この御曹司の激励に家臣たちが勇気づけられたのは間違いありません。
この初陣をきっかけに、頼りない「姫若子」ではなく、長宗我部家の跡取りとして認められることになるのです。
しかし、この初陣がもっと早ければ、秀吉が関白になる前に四国統一を成し遂げられたかも・・・?

もしも、父・国親がもっと長く生きていたら・・・?

土佐神社参道(高知市) 四国統一を祈願して元親が再建しました。

元親が生まれた頃の土佐は、最大の勢力を誇る一条氏と他7つの豪族で細かく分裂していました。その中の小さな領地で衰退しかけていた長宗我部氏を盛り返したのが、元親の父・国親でした。国親は息子の初陣を見届けた後すぐに病死してしまいますが、もし、この偉大な父と軍才に長けた息子のタッグが長く続いていたら、15年もかけず、もっとスピーディーに土佐を統一できていたかもしれません。しかし、この父の遺言のおかげで、元親は戦国武将として大きく成長していくわけですが・・・。

もしも、土佐統一が10年早ければ・・・?

浦戸城跡(高知市) 秀吉から土佐一国の領有を許された後岡豊城から移り、以後長宗我部氏の本城となった。

元親が土佐を統一するまで、初陣の頃から数えると15年もの歳月を費やしています。さらにそこから四国を平定するまでに10年。この25年もの間に、世の中は大きく動いています。甲斐・武田信玄や越後の上杉謙信が亡くなり、美濃の織田信長は足利幕府を滅ぼし、天下統一へ近づきつつありました。元親が土佐平定に時間がかかったのには理由があります。父の代から大変な恩を受けた一条氏を攻めることに躊躇していたからです。元親は何か友好的な手立てはないかと思案しますが、それを見かねた弟の親貞(ちかさだ)が「天罰は私が受けます」と一条攻めを請け負い、ようやく土佐を統一することができたのです。
情に厚く「義」を重んじる元親らしいエピソードですが、もし10年早く土佐を統一していたら、本州へ攻め込み、ライバル・織田信長との対戦ももっと早く実現していたのかもしれません。

もしも、秀吉と違う時代に活躍していたら・・・?

愛馬の塚(高知市) 秀吉から拝領した馬、内記黒(ないきぐろ)の塚。

元親が四国を平定した頃、秀吉は紀州を征伐し関白へ就任、四国征伐へと動き始めました。秀吉は11万もの大軍を四国へ送り込み、追い詰められた元親は籠城戦に持ち込もうとしますが、家臣に説得され、降伏することを選択します。秀吉は阿波、讃岐、伊予を没収し、土佐一国を元親に与えました。せっかく統一した四国を奪われ、はらわた煮えくり返っていた元親ですが、謁見の際に秀吉の丁重なもてなしを受けるばかりではなく、人質になっていた息子の即時解放や上等な馬のプレゼントなど、その「人たらし」の力量に感服。天下統一をもくろむ野心家から忠実な豊臣の家臣へと変わっていきました。
しかし、そもそも秀吉がこの時代にいなかったとしたら、妻の血縁者である明智光秀が天下を取っていたかもしれず、元親自身が天下を取れなかったとしても、四国の覇者としてもっと良い待遇が待っていたかもしれません。すべては運次第、ですね。

もしも、一領具足でなく、戦闘のプロ集団だったら・・・?

一領具足の碑(高知市) この石碑にはあの幕末の志士の先祖の名前もあるのかも?

一領具足(いちりょうぐそく)とは、半農半兵のことで、国親の代から土佐を支えてきた民衆たちです。普段は農作業に精を出し、戦が始まると鍬を槍に持ち替えて戦いました。元親はこの一領具足たちをとても大切にしており、収穫などの繁忙期には召集をかけないように気を配っていました。民たちもそんな領主に忠誠を誓い、武芸の鍛錬にも励んでいましたが、しょせんは兼業武士。秀吉率いる武将のみで結成されたプロ集団にはかなうはずもなく、四国征伐で侵略をゆるしてしまうのです。もし、元親が秀吉のように戦いのためだけに動くことのできる戦のプロ集団を持つことができていたら、戦局は大きく変わっていたかもしれません。しかし、この一領具足の子孫たちが、幕末という時代で活躍し、その後の日本を大きく変えることになるのです・・・。

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