ジョン万次郎

足摺岬に立つ万次郎像

ジョン万次郎 冒険記の原点 土佐清水を訪ねる

ジョン万次郎資料館 (海の駅あしずり内)

いくつもの奇跡と逆境に立ち向かう精神で人生を切り開いた万次郎。坂本龍馬、西郷隆盛、桂小五郎・・・数々の偉人の陰に隠れていますが、幕末維新を語るのに欠かせない功績を遺しました。その中の一つでも欠けていたら、現代の日本の姿はなかったかもしれません。そんな想いを馳せながら、数奇な運命・冒険の原点を訪れてみませんか?

遭難・命がけの無人島生活

遭難したときに乗っていたとされる船の模型(ジョン万次郎資料館展示)

万次郎は幼くして父を失い、出稼ぎに出ていました。14歳の時に仲間と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着します。島には食べられるものが少なく、アホウドリを捕まえてその肉や卵を食べ、雨水を溜めてのどの渇きを癒すという、サバイバル生活を送りました。みんなやせ細り、救助をあきらめかけていた頃、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられます。漂流から143日後のことでした。この出会いが万次郎の人生を大きく変えることとなりました。

渡米への決意

万次郎少年像  万次郎と共に遭難した4人の表情は嵐のすさまじさを感じさせます。

救助されたものの当時の日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づけません。それに、帰国できたとしても脱国とみなされ、命の保証はありません。ジョン・ハウランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろし、生活態度が良く見どころのあった万次郎をアメリカで養育したいと申し出ました。万次郎自身も異国の文化を学びたいという気持ちがあったので、アメリカに渡ることを決意するのです。

初めてアメリカの地を踏んだ日本人

ホイットフィールド邸(複製) ジョン万次郎資料館の入口は万次郎も住んでいたホイットフィールド船長の自宅を模しています。

〈首席となった日本人〉
ホイットフィールド船長の養子となった万次郎はマサチューセッツ州フェアヘーブンで共に暮らしました。学校で、基礎教養と航海術・造船技術などを学び、首席になるほど熱心に励みました。しかも学費やテキスト代など、食事以外のすべての費用を自分で稼いでまかなっていました。船長の好意には甘えない、真面目な一面がうかがえます。

〈ゴールドラッシュで帰国資金を稼げ!〉
日本人で唯一ゴールドラッシュで金を採った万次郎。その目的は日本への帰国資金を稼ぐためでした。数年の航海を経てカリフォルニアへ向かい600ドルを稼いだ後、ハワイに向かい、手漕ぎボートの「アドベンチャー号」を購入。仲間と共に上海行きの商船に乗り、沖縄沖でボートをおろし、ついに日本へ上陸したのです。

帰国した万次郎の幸運

出典元:万次郎直系5代目中濱京

〈罪人ではない!欧米の文化を伝える情報源〉
薩摩藩領の琉球(いまの沖縄県)に上陸すると、長い尋問の期間が待っていました。薩摩藩、長崎奉行所、土佐・・・。ここで運が良かったのは、薩摩藩主、島津斉彬や土佐の山内容堂が先進的な考えを持ち、欧米に関心を持っていたということ。脱国した罪人としてではなく、貴重な情報を持った賓客として扱われたのです。

〈異例の出世、幕府直参、中濱万次郎の誕生〉
帰国から2年がたった頃、幕府に招かれて江戸へ向かうと、直参旗本にとりたてられました。幕府はペリー来航によりアメリカの情報を必要としていました。そこで翻訳や通訳を任せられる万次郎を登用したのです。万次郎は英会話本や航海術本の作成、造船や捕鯨の技術指導、さらに土佐の藩校の開設などさまざまな分野で活躍しました。また、日米和親条約の締結に奔走し、日米修好通商条約批准の際には、使節団の一員として勝海舟らと共に咸臨丸に乗り込みました。橋渡し役として、日米関係の友好化に努めたのです。

万次郎が残した3冊の本

万次郎直筆 「アルファベット掛け軸」(ジョン万次郎資料館展示) これを使って後藤象二郎や岩崎弥太郎に英語を教えていたのかもしれません。

■日本初の英会話テキスト「英米対話捷径(えいべいたいわしょうけい)」
万次郎は誰でも英語がわかるようにと、日本初の英会話テキストを作りました。英文にカタカナの発音表記、訳文をつけ、読み順を示すレ点が加える工夫もされています。幕末の国内で大変重宝され、咸臨丸に乗船した際もこのテキストが大活躍したと言われています。勝海舟や福沢諭吉もこれで英語を勉強したのでしょう。

■アメリカの様子を伝えた伝記「漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)」
土佐での取り調べで語られたアメリカの様子を絵師、河田小龍が挿絵を加えて書き起こした、いわば万次郎の伝記。このアメリカ体験記に坂本龍馬はじめ多くの人が心動かされたに違いありません。

■航海のバイブル「ボーディッチ航海術書」
アメリカで学んだ航海技術を日本語に訳したもの。当時の日本には航海に関する用語が存在しないので、専門用語を作るところから始まり、完成に2年もかかったと言われています。

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